投稿日:2015年11月01日 |
タイトル: |
中川直哉編著『電気通信大学 黎明期の研究』出版 |
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自分自身いまだにあちこちと飛んで歩いている身であるが、この歳になると「もうこれが最後になるかも知れないから」などといってあちこちから同期会の案内が来るようになる。実は来月も中学のクラス会が予定されているのであるが、今月は卒業50周年記念ということで久しぶりに調布の電気通信大学(電通大)に行ってきた。
私が電通大に入学したのは1961年(昭和36年)である。当時の電通大は、戦後、新制の国立大学として発足してからようやく12年がたったばかりで、東京の西のはずれの栗林に囲まれた小さな大学だった。今でこそ立派な研究棟が林立する大学ではあるが、「あの当時は本当に何もなかったなあ」と学友にいうと、「いやいや、建物は粗末だったけれど、教授陣だけは凄いのがそろっていた」と述懐した。それは確かにそうだった。専門課程の教授たちもさることながら、物理・化学・数学をはじめ、外国語・歴史社会学など一般教養課程には特に新進気鋭の研究者が布陣しており、旧制高校の校舎をそのまま移築したようなオンボロ教室でそれぞれ創意に満ちた熱い講義を展開していた。中でも有機化学の中川直哉先生の講義はひときわ活気に満ちていて、「有機電子論」という当時としては最先端の量子化学について、たとえばベンゼン核の円環に沿って動きまわるシュレーディンガーの電子の雲の流れをあたかもこの眼でみてきたかのようにワーワーと声を出しながら黒板に描きまくり、90分間一時も休まずに熱弁をふるっていた。こうなると学生たちの気持ちも高揚し、中川先生の講義となれば我先にと、先を競って一番前の席になだれ込んでゆくのだった。そんな講義があちこちで行われていた。
研究室にあっても、当時、電通大では半導体工学をはじめ、レーザー分光、質量分光、電子スピン共鳴など幾つかの機器分析に関する先端的な研究開発が進められていた。中でも高分解能核磁気共鳴分光器(NMR)とその応用技術に関しては東京大学の化学から送り込まれた藤原鎮男教授を中心に、荒田洋治助手、中川直哉講師、それに理論的な支えとして協力した量子力学の神戸謙次郎教授らが全国のトップを走っていた。写真の磁石はわが国最初の高分解能核磁気共鳴分光器の試作機で、当時は今日のように潤沢な科学研究費がつかなかったため、学長と藤原教授らが自費をつぎ込んで製作した貴重な研究遺産である(註)。高分解能核磁気共鳴分光器は、現在、化学分析機器としてのみならず、磁気共鳴画像解析装置(MRI)と名を変えて現代医療にあっては欠かせない機器となっている。
電通大草創期のこれらの研究については、現中川直哉名誉教授が電通大歴史資料館(現コミュニケーションミュージアム)学術調査委員として「電気通信大学黎明期の研究」というパンフレットを編集してミュージアムで配布していた。そこで中川先生とも相談し、今回の卒業50周年同期会を期にそのパンフレットを増補して1冊の書籍として出版すべくこの8月中旬から準備を進めていたのだった。出来あがったのが添付写真の新書版で、幸いにして同期会の日の朝、自宅を出るときにそのサンプルがアマゾンから届いた。このアマゾンのサービスの素早さには驚いた。仕上がりも上々で胸をときめかせて大学へと向った。
本書は、書名にある通り、電通大黎明期の研究を概説したものであるが、当時、教官や大学職員、学生たちが体験した大学の歴史の記録として「電気通信大学教官は軍事研究を行なわない」といった章も巻末に附しておいた。また、電気通信大学の初代学長は、著名な物理学者であった寺沢寛一先生で、開学にあたっては、当時はまだアメリカによる占領下の時代であり、その裏にはGHQとのかけひきなど幾多の紆余曲折があった。その辺の事情を垣間見るための数少ない資料のひとつとして、道家達将先生の「寺沢寛一と日本の数理物理」を雑誌「自然」の1964年11月号から許諾を得て巻末に転載した。電通大の前身は、官立無線電信講習所(昭和17年発足)ということになっている。その電通大に開学当初から何故あれだけの研究者が集まっていたのか?道家先生の記事や中川先生のあとがきによれば、電通大開学の裏には、終戦の年逓信院総裁(逓信大臣)に就任した松前重義、東大総長南原繁から寺沢寛一への系譜があり、三者に共通した建学の精神は「一般教育重視の教育」ということであったらしい。電気通信の大学でありながら入学早々にシェークスピアを読まされた理由がわかるような気がした。今朝の朝日新聞(10月21日)にも国立大学における文系軽視の問題が取り沙汰されていた。この小冊子が単に電通大黎明期の研究だけではなく、今日の大学のあり方そのもを問う上で何某かの参考になれば幸いである。
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